翠雨のメモワール 第1話

 ここは海の匂いがする。
 駆逐艦「五月雨」の魂を持つその少女は、通された部屋で、いの一番にそう思いました。

 狭い部屋でした。とても偉い人の執務室とは思えぬほど、片付きが悪く、ごちゃついています。輝かしい記念品や楯、賞状は隅に追いやられ、その威光は現在の海軍を象徴するかのようです。だけれど五月雨の目を引いたのは、その中で一際ささやかに、身近に、机に飾られた徽章と古びた写真でした。それはある男の人が艦長であった頃の物で、彼の大切な思い出であり、今も代え難い誇りであることが窺える代物です。
 開け放たれた窓から吹き込む潮風が、五月雨の透き通るような空色の髪をなびかせました。それと同時に、風上から低く響く声が彼女に届いたのです。

「すまないね。きみの最低限の自由を守るだけのことに、これだけの時間がかかってしまった」

 その声こそ、この部屋の主である海上幕僚長……現海軍、いや海上自衛隊のトップに立つ男の人のものでした。しかし彼はそれを思わせない深く沈んだため息をついています。
 目の隈は彼の尽力の成果であり、刻まれた皺は勲章です。もちろん、それは五月雨の処遇をめぐってのものだけではないのでしょう。

「いいんです。それより状況はどうでしょうか」

「よくない。とても」

 五月雨の水平線の彼方まで見通すような青い視線が床へと落ちました。それは決して目の前の男性への失望ゆえではありません。彼女は現状に心を痛めると同時に、自らの意志と使命を改めて感じていたのです。
 彼らを取り巻く環境はここ数年で一変したと聞いていました。その問題への対処は全人類の最優先事項で、そしてなにより五月雨たち「艦娘」の、人の姿に変わってまで現に戻ってきた理由でもあります。

 深海棲艦。
 人類全ての敵。僅かな期間で世界中の海を制圧し、この島国を孤立させた謎の武装勢力です。それを災害と呼ぶ者も少なくないと聞きますが、実際に対峙した艦娘や海の戦士たちにはわかっていました。彼女たちは明確な悪意を抱いて行動する生命で、だからただ過ぎ去るのを待つわけにいかないのです。
 そんな状況下で、海上幕僚長の彼は前門に深海棲艦、後門に権力者たちを相手取り、力を尽くしてくれました。深海棲艦と殆ど時を同じくして現れた、未知の力で海を駆ける少女たち……艦娘を信用し、味方に引き入れるために。
 その難しさは当事者である五月雨さえも痛感しているところです。自分たちのような定義も難しい浮遊霊のような存在を、容易く受け入れてもらえるというのはあまりにも虫のいい話でしたし、当初の楽観は長い軟禁生活でとっくに霧散していました。ただ、政治家たちが悪いわけではないのです。慎重なのはむしろ評価される点でしたし、タガが外れた結末を知らぬ五月雨でもありませんでした。
 だからこれはようやくのスタート地点で、同時に、とてつもなく大きな一歩なのです。

「わたしは、お力になれますか」

 万感の思いで彼女はその言葉を口にしました。
 男性は厳かに頷き、それから初めて少し柔らかい表情を見せます。

「むしろこちらから改めて頼もうと思っていた。五月雨くん、君たち艦娘が今も望んでくれるのなら、我々は君たちを正式に組織に組み込む用意がある。その場合、これからは君たちにも我々の指揮下で作戦行動に参加してもらうことになるが」

「は……あ、いえ。わたしはそれを希望します」

 こうした曖昧な物言いは致し方ないところです。五月雨は艦娘の代表というわけではないし、彼女たちの意志が統一されているとも言い切れる立場にないのですから。
 彼女自身、艦娘とは自身を除く四人としか会ったことがなく、他の魂の所在は未だわかりませんでした。何人か、艦の頃に縁のあった者の気配をぼんやりと感じる程度です。
 それでも、そうした事情は事前に海上幕僚長へ伝えています。彼も理解した上で形式上そう尋ねたのだと、彼の真摯な表情を見て、五月雨はそう思うようにしました。

「君の献身に感謝する」

 男性のその一言で五月雨は救われたように大きく息を吐き出しました。これでやっと何の憂いもなく、親愛の情を抱く人々の力になれるのだと、胸を撫で下ろします。

 そんな彼女の様子を、表情一つ出さずに海上幕僚長もまた安心して見つめていました。五月雨は知らなかったのですが、彼にとっては初めから今に至るまで一貫して艦娘は信頼に足る存在だったのです。いえ、彼だけでなく、海へ出たことのある者ならば皆想いは一つでした。どうしてか、彼らには彼女たちと肩を並べて戦うことが名誉のように思えたのです。深海棲艦という共通の敵、悪意そのものを見てしまった者ならば殊更にそうでありました。

 そんな感情は隠したまま、海上幕僚長は一冊のファイルをデスクの引き出しから取り出します。

「話の続きを。君たちを運用する上でその特異性を考慮しないわけにはいかない。よって特殊部隊の設立と君たちの配属も同時に決まった。ここにあるのはその責任者となる者達の候補だ。私が選んでも構わないが、君も目を通したいだろうと思ったのだ」

「見せてください」

 五月雨はファイルを両手で受け取って、一枚一枚めくっていきました。
 ところが半分ほど確認したところで、彼女は違和感を覚えます。載っている者はいづれも若く、階級も尉官クラスが殆ど。自分たちのような者をまとめるのならば、相応の地位と経験が必要だと考えていた五月雨は面食らいました。
 遠慮がちにファイルから覗かせた少女の視線が、男の様子を窺うような視線と交わります。それで五月雨は、なんとなくではありますが事情を察しました。

「立ち場ある者は皆、様子見して受けたがらない」

 彼女が言葉を発する前に、海上幕僚長が口を開きます。

「もちろん状況は変わる。変えていけるはずだ。だがそれも、正直なところ君たち次第なのだよ」

「そう……そうですよね」

 無理に笑った顔が引き攣っていないことを五月雨は祈りました。山あり谷あり、問題は海のように広く深いものでした。それでも自分たちを鼓舞し、歌いながら進んでいくしかないのです。
 そんな心象風景が五月雨の頭をよぎるのと同時に、現実の目が赤い煌めきを捉えました。彼女はなあなあになっていた手元に再び力を込めて、めくったページを遡ります。

「見つけた……! 暁山……継美さん」

 そこには二等海尉の女性の来歴と写真が載っていました。まだ若く整った顔立ち、写真越しにも伝わる溌剌とした気。強い意志を感じさせる瞳は、片目が紅色の珍しいオッドアイでした。

「暁山くんか。防衛大学を優秀な成績で卒業した期待の若手と聞いておる。今は黒峰一佐の補佐を任されているはずだが、彼女が気にかかるのかね」

 こくりと五月雨が頷きます。その即答ぶりに海上幕僚長といえど少し動揺しました。なにせ五月雨自身、何に突き動かされて暁山二尉を選んだのか完全に理解していたわけではないのです。他人からすれば疑問を持って当然でした。

 強いて言うのならこれは定めだったのでしょう。
 後にこの時のことを運命だったと語る暁山提督の前で、元海上幕僚長となった彼は豪快に笑ったそうです。「ロマンのわからない奴は何をやったって駄目だ。そうでなければな」と。それからずっと海上自衛隊で語り継がれる言葉を残したのでした。

 話は元に戻り、五月雨は緊張した面持ちで海上幕僚長の次の言葉を待っていました。
 既に彼女の中で暁山以外が自分の上官になるイメージは消えています。半分と少しめくったファイルは、残りを見られることすらなく机に鎮座していました。

 それを見た海上幕僚長も、五月雨の希望を聞くと言った手前もあり、拒否するつもりは初めからなかったのです。ただ、理由だけは尋ねるのが普通でしょう。それはお互いわかっていました。
 ただ五月雨は今の感情を理路整然と語る自信がありませんでしたし、海上幕僚長は彼なりにそれを感じ取って躊躇っていました。野暮の二文字が理性を上回るほどに、不思議な空気がそこに生まれていたのです。
 そして女神の声にそそのかされるようにして、ついに彼も頷きました。

「わかった。暁山二等海尉を君たち艦娘を率いる特殊部隊の隊長に任命する。数日中に彼女をここに呼ぶので、君も立ち会いなさい」

「はい。えっと、ありがとうございます!」

 あまりに勢いよくお辞儀したので、彼女は机に頭をぶつけてしまいました。だけどそのとき五月雨は、初めて自分の感情が自然に言葉に乗っているのを感じたのです。簡単なことだったんだなと、なんだか拍子抜けしてしまいます。
 きっと理由を尋ねられていても、自分の気持ちを包み隠さず言葉にすれば、少なくとも目の前の男性はわかってくれただろうと、そう思えたのです。

 それからは暁山二尉に会うのが楽しみな毎日でした。
 どんな人なのだろうと、五月雨の心は弾んでやみません。測定のための海上航行中にスキップして注意を受けたりと、はたから見ても浮ついた様子でした。
 早く声を聞きたい。あの赤い綺麗な瞳に自分がどう映るのか確かめたい。五月雨はいつしかそんな思いを抱えるようになっていました。
 それが単に自分の上官に対する認識ではないことに、彼女はまだ気づけていません。五月雨は船で、それを動かすのが艦長と乗組員。統括し指示を出すのが提督……誰も彼もが彼女の友で、家族で、一部なのです。
 人の体を得たとて簡単に考えが変わるわけではありませんでしたから、誰に共感されなくても、彼女は彼女の一番深いところにある空席に正しき主が座るのを、ひたすらに心待ちにしていたのです。

<< >>

Novelsへ戻る
TOP

2023年8月18日